書道
教室
東京  東京都中央区京橋2-8-1 03-5159-7770
八ヶ岳書道教室  山梨県北杜市長坂町小荒間1919 0551-32-6277

泰雲書道美術館
泰雲書道美術館

山梨県北杜市長坂町小荒間1919

 (新宿より、中央本線特急で2時間の「小渕沢」駅で、JR小海線に乗り換え、「甲斐小泉」駅下車。)

電 話 0551−32−6277
開 館

美術館の開館は、毎週金曜日から日曜日までの三日間とさせていただきます。

開館日以外で入館をご希望される方は、ご連絡ください。

入場料 一般:1200円   中学生以下:600円
(団体・学書院会員は割引あり。)
※幼児の入場はお断りする場合があります。

 風光明媚なJR小海線「甲斐小泉」駅近くに、平成2年9月開館した泰雲書道美術館は、八ヶ岳泰雲記念館に隣接して建てられた鉄筋三階建て250坪。特に三階は、泰雲先生が最晩年の制作室として予定していたものですが、学書院門下生及び地元の書道普及の為に道場として活用しています。一、二階の陳列室は毎年4月1日〜11月末まで開館いたします。

 建物は、泰雲先生のプランに依る三つの円形窓は、日・月・地球を表わし、三階バルコニーには「我が父なる国」と敬愛した中国への想いを込めて朱塗りの四柱あづまやが作られています。このあづまやで制作の合間にひと休みする泰雲先生の姿が目に見える様な思いがしますが、残念ながら、落成を見ず平成2年3月25日に先生は他界しました。庭内の小道の両側に大石を積み重ね、美術館入り口門は中国風の円形で、門の扁額「雲霞癖」は古文と隷書体で青蘭が書し、雲や霞の湧き興る様に大勢の方がこの門に集まることを願い、山中の雲や霞が湧く大自然の中に身を置いて暮らすことをあこがれると云う意味です。美術館の書壁は柳田家二代目泰麓による「象山川江河之状  類蟲蛇鳥獣之迹」で実に堂々たる篆書です。
 柳田家は江戸時代の儒学者正斎そして泰麓、泰雲と受け継がれ、書道史上にも極めて稀な家系です。特に故泰雲先生は、楷書を最も得意としましたが、平成元年から二年にかけて、中華人民共和国文化部主催により中国九大都市に於いて巡回展を開催、その功績に対し文化部より栄誉證を受けています。又、山東省泰山、玉皇頂には高さ6メートルを超す大楷摩崖碑「国泰民安」及び泰山山麓、遥参亭には高さ3.5メートルの小楷作品、李白遊泰山詩碑を建立しました。
 館長柳田青蘭は、日中友好事業として中国における泰雲書法展開催、泰山摩崖碑建立に尽力、第一回泰山国際シンポジウムに出席し、泰安市名誉市民の称号を受けました。八ヶ岳に建てられた泰雲書道美術館は、柳田書法の展示のみでなく、学書院門人、中国書画家の作品も順次展示しております。
 美しい自然の中に建てられたこの美術館の明るく、ゆったりとした空間は、ご来館の皆様が心ゆくまでおくつろぎ頂けることと思います。
泰雲書道美術館
泰雲書道美術館

1階から2階への階段ホール

泰雲書道美術館
1階陳列室 3階研修室
泰雲書道美術館 泰雲書道美術館
3階バルコニー 2階陳列室

【柳田 泰雲プロフィール】
明治35年(1902年)1月1日、東京日本橋に生まれる。 名は伊秀。日本書道作振会の文部大臣賞を機に父・泰麓の後継者となる。
現代書道二十人展の企画立案など、日本書道界においても様々な貢献を納めた。昭和33年泰麓書道会を学書院と改め後進の指導にあたり学書院展の第一回展を開催。
国内外の個展でも称賛を受け晩年には日中友好へ力を尽くしその証として中国山東省泰山玉皇頂に「国泰民安」の磨崖碑を残した。数多い代表作品の中でも、特に七十歳から八十歳にかけて書かれた紺紙金泥作品は比類のない芸術作品である。   平成二年三月二十五日没 八十八歳
柳田泰雲
●作品の主な収蔵先
米国ホワイトハウス、ワシントン国立図書館、ロックフェラー財団、スイス・エルミタージュ美術館、イギリス大英博物館、中国・ケ小平氏、胡燿邦氏、駐中国日本大使館、東京国立博物館、駐日米国大使館、駐日中国大使館、マイケルジャクソン氏、中華人民共和国成立40周年記念展覧会、各開催地の美術館及び博物館
●主な活動
明治35年 書家柳田泰麓の長男として1月1日、東京日本橋川瀬石町に生まれる。祖父は江戸時代の儒学書家、柳田正斎。
40年 5歳 父より書のてほどきを受ける。泰麓の強い意志で小学校入学を拒否する。
41年 6歳 書の学習に専念。
大正2年 12歳 数え年12歳にちなんで12畳大の寿字を書き、父より「泰雲」の号をもらう。
大正15年 25歳 第2回日本書道作振会展で最高賞(文部大臣賞)を受ける。書展に対する初めての文部大臣賞(文部大臣・岡田良平)であり、旧東京府美術館竣成初の書展であった。
昭和2年 26歳 第3回日本書道作振会展・特選第1席
3年 27歳 第4回日本書道作振会展・特選
4年 28歳 第5回日本書道作振会展・特選
7年 31歳 東方書道会を同志11名と結成。その菫事審査員となる。東方書道会展は毎年1回東京都美術館にて第11回展まで開催。以後、戦争のために中断。
9年 33歳 東京高島屋にて、初めての個展。
10年 34歳 紀元二千六百年を記念する「神武天皇宮崎宮顕彰碑」(宮崎県に現存)、その他三碑の揮毫を依嘱される。
21年 45歳 日展審査員となる。以後5度審査員を務める。昭和38年、日展審査員を辞退。後、日展を退会(49年)。
27年 51歳 全日本学生書道連盟を創立し、以後38年間余にわたり学生書道の振興をはかる。
32年 56歳 朝日新聞社主催、現代書道20人展の企画人選に当たる。以来34回展(平成2年度)まで連続出品。
33年 57歳 学書院(泰麓書道会を改称)を創立。学書院第1回展を東京都美術館にて開催。以来、毎年1回開催。平成二年第32回開催。
38年 62歳 ニューヨーク、ワシントン、サンフランシスコ、ロサンゼルスなどにて個展開催。
49年 73歳 大阪にて個展「書人・泰雲展」開催。
54年 78歳 喜寿展開催(東京セントラル美術館)
55年 79歳 個展「パリ展」開催。
56年 80歳 傘寿展開催(東京セントラル美術館)
58年 82歳

1月柳田四代展開催(東京セントラル美術館)

大英図書館に紺紙金泥作品が収蔵される。

59年 83歳

北京中国美術館において中国展覧公司主催「泰雲展」を開催。胡燿邦総書記を表敬訪問。

ケ小平主席、胡燿邦総書記両氏に紺紙金泥「書譜」「臨楽毅論」贈呈。

スイス・ローザンヌ市エルミタージュ美術館開館記念のため、読売新聞社より揮毫依頼。六曲屏風・壮子之語を制作。同美術館所蔵。

アメリカ合衆国・レーガン大統領に、紺紙金泥「福寿海無量」贈呈。

60年 84歳

駐日アメリカ大使マンスフィールド氏に、紺紙金泥「李白詩」贈呈。

麻布東京アメリカンクラブにおいて在日外国人のための書道展を開催。

61年 85歳

第30回現代書道20人展(朝日新聞社主催)出品作・紺紙金泥作品「離騒経」を、東京国立博物館の懇望により寄贈。

昭和天皇御在位60年を奉祝して、紺紙金泥大字四曲屏風「聖寿萬歳」揮毫。

9月28日、山梨八ヶ岳山麓に泰雲記念館竣成。

62年 86歳 芝・増上寺に於いて、学書院筆供養大会開催。大字「観空」揮毫、増上寺寄贈。
63年 87歳

泰雲書法展打合わせのため訪中。(10月)

平成1年 88歳

9月慶祝中華人民共和国成立40周年記念、柳田泰雲書法展始まる。

同月、北京展開幕式出席のため訪中。40周年を記念し40点の作品を贈呈。中国政府文化部より栄誉証を授与される。

10月西安展、11月武漢展開催。泰雲作品収蔵館工事着工。

平成2年 89歳

1月米寿祝賀会開催。同月、昆明展開催。

2月広州展開催。

3月上海展開催。山東省泰山玉皇頂に摩崖碑建立決定。

3月25日午前9時心不全にて永眠。

4月抗州展開催。

5月南京展開催。

6月瀋陽展開催。

9月八ヶ岳泰雲作品収蔵館落成。

9月13日山東省、泰山玉皇頂にて「国泰民安」摩崖碑除幕。


柳田正斎(しょうさい)

(1797〜1888)

寛政九年千葉佐原に生まれる。名は貞亮。

儒学者、書道家として名を著した。八十歳代には盛んに書いたらしく、特に八十五歳頃の作品が多く残っている。青年期に昌平黌に学び剣道に長じ千葉周作と親交を結び、以来江戸お玉ヶ池のあたりに居を移した。明治二十一年九月二十九日没。九十二歳

柳田泰麓(たいろく)

(1862〜1932)

文久二年正斎の子、東京本所に生まれる。名は三四郎。

正斎より書号を「半古」と授号されて幼少より書名が高く、その書は父正斎の書と見まちがえる程だったと言われていた。大正元年(1912)泰麓書道会を創立、盛んになってきた書道界に貢献した。生活苦と制作上の悩みから脱皮する為に自ら葬式を出し半古から泰麓に改号した後の作品は一段と光彩を放っている。昭和七年二月十一日没。七十一歳

柳田蘭皋(らんこう)

(1872〜1965)

明治五年茨城県に生まれる。名は新。

泰雲の生母。泰麓に嫁してより、女流書道家として名のある存在であった。特に行・草・仮名に秀でた作品が多い。昭和四十年八月三十日、千葉県市川市にて没。九十三歳。

柳田泰雲(たいうん)

(1902〜1990)

明治三十五年泰麓の長男として一月一日、東京日本橋に生まれる。名は伊秀(これひで)。

日本書道作振会の文部大臣賞を機に泰麓の後継者となる。

現代書道の二十人展の企画立案など、日本書道界においても様々な貢献を納めた。昭和三十三年泰麓書道会を学書院と改め、後進の指導にあたり学書院展の第一回展を開催。国内外の個展でも称賛を受け晩年には日中友好へ力を尽くしその証として中国山東省泰山玉皇頂に「国泰民安」の摩崖碑を残した。数多い代表作品の中でも、特に七十歳から八十歳代にかけて書かれた紺紙金泥作品は比類の無い芸術作品である。

柳田青蘭(せいらん)

(1934〜)

昭和九年東京に生まれる。名は禮子。

二十二歳で泰雲に嫁してより書に親しみ泰雲の片腕として学書院の副院長を務め後進の指導にあたりながら女流書家として活躍し、独自の感性を生かしハイテク技法による作品表現にも意欲を見せている。泰雲の志を継承し、日中友好に力を注ぎ書を通じて中国との文化交流を深め中国山東省名誉市民ならびに湖北省国際文化交流中心名誉理事の称号を受ける。現在、京橋に本部を持つ学書院々長、全日本学生書道連盟理事長、八ヶ岳泰雲書道美術館々長を務めている。


GAKUSHOIN